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大学専任講師

自分責任論

兼子 良久(かねこ よしひさ)

"怒られても責任は自分にある「責任自分論」で、自分が悪いのだと そう素直に受け止めていたから頑張ることができた。"

 

“エスカレーター式ではない大学受験を考えたが、結局諦めてしまった。周囲から見れば大したことではないかもしれないが、自分にとっては大きな後悔として残っていた。”

 

―――大学専任講師となったのは兼子さんが37歳の頃。現職に至るまでのお話を、高校時代から伺っていきました。

私が大学受験をする頃は、ベビーブームの波でまさに競争激化状態。当時私は高校から大学へと内部進学できる学校に通う中で、自分は外の大学を受けようと考えていましたが、結局諦めてしまいました。このことが、大きな後悔となって自分の中に残っていて、不完全燃焼という感じが拭いきれずにいました。大学3年次、そんなに好きでもない勉強だけど完全燃焼したい、そして大学院へ進もうと決心しました。そこでは経済学の代表ともいえるミクロ経済学を学ぶ選択をしました。

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はじめからあまり深くは考えず、その都度自分の直感で選択をする。”

―――日本大学大学院時代、大学院の博士課程まで残らないかと担当教員に提案された兼子さん。当時はその考えはなく、就職活動を始め広告代理店に入社することを決めたそう。

博士課程まで残るということは大学の教員を目指すということを意味します。しかし、当時は教員になるなんてことは全く考えてもいなかったので、就職の道を選択しました。広告代理店を選んだのは直感です。特にどうしたいというわけでもなく、その頃はとにかく「与えられた環境で頑張る」という感覚が自分の中でのスタンダードでした。だからそこまで深く考えることはなかったし、給料や福利厚生といったことも気にしなかった。ただ仕事内容は楽しそうだなと思った程度でした。

サラリーマン時代は本当に毎日毎日怒られていました。1~2年は怒られていたような…(笑)仕事が終わるのも基本が22~23時で、24時を過ぎることもざらにありました。最初の1年目はずっと辞めたいと思っていましたし、入社当時は右も左も分からず仕事ができないのは当然ですよね。怒られても責任は自分にあるという「責任自分論」で、自分が悪いのだとそう素直に受け止めていたから頑張ることができたと思います。

―――広告代理店で働き始めてから5年。転職をして、もっと自分の中で勝負をしてみたいと思うようになったという兼子さん。

上司からの「リサーチアナリストにならないか?」という提案が転職を考えるきっかけとなりました。そもそもマーケティングは、リサーチアナリストのように市場の分析や調査をする者がいないと成り立ちません。データをベースとすることが基本となるマーケティングの世界において、何を自分の強みにしていくのかを考えると同時にもっと外の世界を見てみたいという思いが強くなりました。

しかしながら、実際に仕事をしながら転職活動をするには相当な根気が必要でした。そんな中で、思いついたのは二度目の大学院進学への道でした。

―――信頼する教授からの一言で、教員を目指すことを決心した兼子さん。それからは寝ずに勉強と仕事の日々。

大学院の試験には無事合格し、2年で卒業するつもりでいたのですが、ある日担当教授から「博士課程に進む気はないか?」と言われました。日本大学の時も教員にならないかと言われ、今回で二回目。これは教員の道に進んだ方がいいということなのかもしれないと考えるようになりました。

現在の大学専任講師になったのは、学習院大学の大学院を卒業して3年経った頃でした。つまり、3年間は浪人生活です。非常勤講師もしながら仕事もしながらで、夕方まで仕事をして、それから深夜まで論文を書くという日々でした。だんだんと自分は教員にはなれないのではないか、という不安も募ってきました。大学教員というものは、すべて業績で判断されるんですよ。だけど明確な基準はなく、すんなり決まる人もいるし、そうでない人もいる。そんな世界なんです。

大学教員になるための試験は、専攻ごとに全国の大学からの公募が出て、とにかく出たところに応募するというかたちです。公募といっても、1年に十数件しかでないですから、とにかく受ける。そして受かったのが現在の鹿児島国際大学でした。そこで鹿児島に行くことを決意しました。

 

 自分自身の努力だけでできることは本当に少なかった。人に恵まれたおかげで、これまでやってこれたということの方が多かった。”

これまでも自分の直感を信じて、その場その場で何事も選択してきました。直感で判断することの良さは人それぞれですが、人生はどう転んでいくか分からないものです。自分で考えてどうかなるということではありませんから、いかようにでもなると考えるようにしています。

―――今年40歳となる兼子さんだが、現在の職に就いたのは37歳のとき。今年で教員3年目を迎えるわけだが、これまでとは全く異なる教員という仕事とどのように向き合っているのかを聞いてみた。

もちろん仕事ですから、楽しいことも大変なこともありますよ。

楽しいことでいえば、やっぱり学生時代の雰囲気の中に自分も一緒にいられることですかね。大学時代って自分もそうでしたけど、人生の中でも自由な時間だと思います。だから、ゼミなどを通して学生と飲みに行ったり、合宿に行ったりという時間は本当に楽しいです。

逆に大変なことでいえば、とにかく人と接する密度の濃い仕事だということですね。前職の広告代理店も人と接する仕事ではありますが、あくまで相手にするのは顧客です。顧客と、学生じゃ接し方が変わってきますよね。だから、教員になって相手が何を考えているのか、精神状態はどうか、元気がないと何かあったのかなと考えたり。そういったことを相手に悟られないように気を遣うのが大変です。仕事をやるというよりも、コミュニケーションの世界ですからね。

 

 ―――兼子さんは大変気さくな方だなという印象が強い。大学の先生という堅いイメージとはかけ離れているような。何か教員として気を付けていることはあるだろうか。

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常に若々しい気持ちでいることは大切にしています。きっかけは、サラリーマン時代のことです。職場の先輩から、「兼子、明日から髪を染めてこい。この仕事をするなら、常に若くあれ。若い心を持つことを忘れるな。」と言われました。その頃の自分は、仕事が忙しく家に帰らないことも多かったので、髪もぼさぼさ、スーツもよれよれという状態が多かったんです。先輩に喝を入れられたことをきっかけに、次の日からは身なりを整えて出社しました。今もその教えを守って、髪を染めるなど身なりは意識するようにしています。だから、学生と接するときももちろん、若い気持ちを持つ。それが自然と学生に伝わっているのかもしれません。

―――兼子さんの魅力は、硬軟織り交ぜたいろんな表情を見せてくださるところ。そこがまた学生を引きつけるポイントなのではと思わされた。周囲の人に恵まれていることに感謝しながら直感を信じて突き進んできた兼子さん。そんなエネルギッシュな姿がきっと学生たちにも熱く映っていることだろう。

 

取材 2014年9月 飯福 あすみ