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ガラス工芸作家

『いっぽんぎった』なんです

頌峰(しょうほう)

コツコツと続けてきた努力が
作品づくりの源泉。
伝統継承を重んじながら
新しいことに挑戦していきたい。

“ガラス工芸作家”。あまり聞き慣れない肩書きのようにも思えるが、昨年パリで行われた料理研究家とのコラボレーション会場で作品を拝見した時からお話をうかがいたいと思っていた。燦然(さんぜん)と煌(きら)めく薩摩切子の「つくりびと」はいったいどんな歴史を持っているのだろうか。

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すべては恩師のひとことがきっかけ

かつて薩摩藩の藩窯であった薩摩切子は明治初期以後百余年もの間製造が途絶えていた。島津家による本格的な復元事業が開始されてすぐの1986年、頌峰さんは島津興業 薩摩ガラス工芸社(現 株式会社 島津興業)に入社。就職先として選んだきっかけを尋ねると、高校在学時陶芸を教わっていた恩師の勧めだったことを明かす。もともとデザイナー職に興味があった頌峰さんは先輩の指導を仰ぎながら休憩時間を惜しんで伝統技術の習得に心魂を傾けた。薩摩切子は「1本の線に数年かかる」といわれるほど忍耐力を要する。辞めたくなることもあったのではないか、失礼を重々承知でストレートに投げかけてみた。

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『いっぽんぎった』なんです

自分をそう表現した頌峰さん。『いっぽんぎった』 は鹿児島弁で一本気のこと。これと思ったら真っすぐに突き進んでいく気質のことだ。「ものづくりが好きでした。性格はどちらかというと不器用なのでコツコツやるしかないと思っていました。以前、宮大工の棟梁が最終的に『もの』になるのは地道に努力した人、とおっしゃっていたことが今でも心に残っています。楽器を弾くようなものかもしれません」。確かに、楽器も上手くなりたい思いが強い時期は夢中で打ち込むものだ。
創作だけでなく販売や作品のプロモーション活動もある。「工房に帰ってすぐ創作的なものづくり、というのはなかなか難しいのでそんな時は思い切ってボーっとして頭の中を整理します」。工房は少し高台にあり、外に出て空を見るにも良さそうだ。気持ちを切り替える方法を心得ておけばリフレッシュしてまた取り組める。

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素直に取り組み、大胆にジャンプする

14年在籍した薩摩ガラス工芸を退社した後、宮崎へ。国の卓越技能者黒木国昭氏のもとで1年間修業し 2001年、鹿児島市内にガラス工房「舞硝」を開設、ガラス職人からガラス工芸作家として新たに活動を開始した。これまでに国内で多くの受賞歴を持つ頌峰さん。最近では海外での活動も増え、今年はフランス・マルセイユ日本国総領事館贈呈品として作品が起用された。
「海外の意識は前から持っていました。はじめは漠然とアメリカへと。開房前、宮崎に住んでいた時はほんの心の片隅にあるだけでした。特に意識し始めたのは、2012年にパリの「アクリマタシオン公園」(パリ西部ブローニュの森の中にあるアミューズメント施設)で、日本の文化を発信する大々的な国際イベントが行われた時です。それに参加したのでははく、『参加できなかった』ことにあります。準備が整わずやむをえず断念しました。その経験があったからこそ、翌年パリ日本文化会館での出展に踏み切ったのです」。

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人との交流が支え

「パリに行きさらに海外への意識は高まりました。販売や鹿児島のPRももちろんですが特に、海外のガラス工芸家などと交流を深めたいとも思うようになりました。様々な人との交流や展示会などでお客様にいただいた言葉はガラスに向かう時のエナジーです」。ガラス工芸に携わって今年で30年目。今後の目標として伝統継承を重んじながら新しいコンセプトで創作していきたいと語った。透明度の高いクリスタルガラスが薩摩切子となるには、カットの模様に合わせて線を引く下書きのような段階から荒削りと細かいカット、さらに艶出しや様々な道具とパターンで何度も研磨する。いくつもの工程を経てアーティストの匠の技と豊かな感性が、薩摩切子の最大の特徴である美しいグラデーションとなり人々を魅了するのだ。様々な経験を積みながらそれぞれの人生が彩られていくように。

 

取材:2015年8月