"『心臓、止めるよ』の指示に手が震えていました"
心臓の手術という大手術には、心臓の専門医が3人、麻酔科医1人、看護師3~4人が関わる。そして、麻酔をかけられて意識のない患者には、目に触れることも記憶に残ることもないスペシャリストが手術室の中に入る。それが臨床工学技士だ。
知名度の低い国家資格
心臓の手術をするには、いったん心臓の動きを止めるため、人工心肺に切りかえる必要がある。人工心肺装置は、手術中、肺の役目を果たすため静脈から流れ込む血液を酸素化し、心臓の代わりにポンプで血液を全身へと送り出す機械だ。この人工心肺を操作するのが臨床工学士の一つの仕事だ。「この業界では一番知られていない職種かもしれません。比較的新しい資格で、以前は医療機器の操作も医師や看護師が行っていました。医療の専門化に伴い、ドクターが手術の方法や進め方など患者に集中するためには人工心肺などの生命維持管理装置など、操作の専門家が必要になったのだと思います。入職した頃は工学技士という名前のせいか、看護師さんから病室のインターホンの修理を頼まれたこともありました(笑)」
医療の中の工学を学ぶ
学生時代を振り返ると部活に明け暮れた日々だった。「就職を考えたのは高3の夏くらいだったと思います。勉強が嫌いだったので大学進学は頭になかったですね。とりあえず公務員試験を受けてみようかなくらいの安易な気持ちで…。結果は市役所、消防署など全敗でした(笑)」その後、母親の勧めもあり、手に職をつけるために医療系の専門学校への進学を考えた。ある学校の入学願書に第2希望の記入欄。その選択肢の中に『臨床工学技士』という耳慣れない職種が目に留まった。「ちょっと興味が湧いて調べ始めたんです。それがきっかけでした。学校はイメージと違って3年間授業がびっしり詰まっていました。大学じゃないんだから、勉強から少しは解放されるかなと思ったんですけど(笑)」新しい資格だけにまだ教科書もなかったそうだが、ひたすら腎臓、心臓、肺など臓器の知識やそれに関連する血液学などの医学系の勉強、そして、電池・バッテリーの知識、流体力学や熱力学、機械工学、超音波の知識などなど医療機器に関わる工学系の勉強が続いた。
生命のエンジニア
臨床工学技士は、腎臓の機能が低下した患者に対し、透析治療(尿として排泄できずに体内に溜まった毒素を取り除く)に携わることが多い。上森さんも透析装置の操作・保守点検を最初に学び、ドクターや医療機器メーカーの方々のサポートを受けながら、徐々に様々な医療機器を取り扱うことになる。「仕事に慣れるにつれて、ずっと前から目標にしていた、人工心肺を操作する手術に関わりたい気持ちが強くなっていったんです」年の離れた妹が心室中隔欠損症といわれる先天性の疾患で心臓の手術を受けていたことも一つにはあった。ちょうどその頃、病院では心臓疾患の手術体制の充実強化が図られていた。
チーム医療の一翼を担って
「解離性大動脈瘤や大動脈弁置換など、心臓の手術は長時間に及ぶ事もある大手術です。手術が入れば土日もありませんし、救急車やドクターヘリで搬送されれば即準備に入ります。最初の頃はドクターから『心臓止めるよ』の指示が出ると、手が震えていました。私たちがこの患者さんの命に責任を負うんだと思うと重圧で、手術室全体に聞こえるくらいの大きなため息をついていました。今では後輩も増え、手術前には『この患者さんと家族だという気持ちになれなければ手術室には入るな』と言っています。緊張する後輩たちを見て、きっといい仕事ができるようになると感じています」テレビドラマとは違い、手術中は本当に静かだという。それは想像を絶する集中力の中のチームワークであろう。上森さんにとって、今は仕事の厳しさもやりがいも手術に集約されている。ここ一番の失敗の許されない現場で、家族を治すという思いで臨む彼らが、患者の心臓の停止から再び鼓動が始まるまでの生命を守り続けている。
取材 2012年11月 No.9 しごとびと