"救急車の中で力尽きた生命。
今はそれが助けられる"
ドクターヘリの要請があると同時に、鹿児島市立病院からラピッドカーで浜町にあるヘリポートへと急行するのがフライトドクターとフライトナース。私たち取材班はそのラピッドカーが待機する市立病院救急救命センター前に来た。中から紺色のフライトスーツを身にまとった女性が現れる。前田さんである。
新たな挑戦
鹿児島県でドクターヘリの導入が決まると、ヘリコプター、ヘリポートなどのハード面の整備と、フライトドクター、フライトナース、ヘリパイロット、整備士をはじめ、その運行に携わるチームの体制づくりが始まった。フライトナースの条件は、看護師経験7年以上。救急看護経験3年以上、その他、ACLSやJNTECなど救急の領域の資格を有していること。そして、リーダーシップ能力、さらに家族の同意も必須条件だった。拠点病院となる市立病院で救急救命センターに所属する前田さんら7人に声がかかった。「ちょうど子育てを終えたタイミングでしたし、家族の理解もありました。もちろん、ドクターヘリの必要性も理解できましたし、やりがいのある仕事だと思いました」それまで、遠路、搬送中の救急車の中で力尽きた数多くの命を目の当たりにし、辛い思いをしてきた前田さん。一刻も早い救命治療が生死を分けることは痛感していた。
仕事への覚悟
今までのフライト経験の中で最も印象深かった話を伺うと、それは研修先での、ある出来事だった。フライトナースになるには、資格の条件にくわえ、指定された研修先で実地訓練を受けなければならない。前田さんが赴いたのは神奈川県東海大学の大学病院。そこでの実戦訓練3日目のことだ。「ヘリコプターが山中に墜落したとの一報で、私たちはドクターヘリに乗り込み現場に向かいました。ドクターヘリのパイロットにとっては同業者の事故ですし、私にとっては初めて目にする生々しく凄惨な事故現場でしたが、その救出現場で起こったすべてのことが私に覚悟を決めさせました」お一人は亡くなったが、もう一人の方は奇跡的に助かり、今では社会復帰を果たしているという。
轟音のヘリの中
現在、フライトはドクター8名、ナース7名でシフトが組まれる。一人が月に4~6回、フライトにあたるペースだ。「フライトの日は朝一番に浜町のヘリポートに行って、医療資機材を点検します。人工呼吸器、シリンジポンプ、除細動器、人工マッサージ機などが正常に作動するかをチェックし、薬剤が揃っているか確認します。担当の日はフライトスーツを着たまま、出動の要請がくるまで、この救急医療センターでまわりの看護師たちのサポートにあたっています」どんなに経験を積んでも、フライトの日は緊張するという前田さん。ドクターヘリが要請されること自体、現場には重篤もしくは瀕死の状態の患者がいるということなのだ。「入ってくる情報は、意識がない、高所から転落したなど、2つ3つの数少ない情報ですが、それを頼りにヘリの中でドクターと二人、どういうことが考えられるか、処置の仕方はどうするか、その処置には何がいるのかシュミレーションをしています。子どもが重体ならば、そのそばにいる親ももう一人の患者と言っていいほどの状態です」しかし、現場を見るや、ドクターとナースは、ほぼ第一印象で患者の状態、そして、とるべき方針を判断できるという。一刻を争う緊迫状態の中、応急処置が始まる。失敗は許されない。ドクターの指示により、ヘリでの搬送ではなく地元の病院へ運ぶときもあれば、心臓手術関連の場合は市立病院ではなく大学病院や鹿児島医療センターなどの協力病院に運び込むこともある。
手のぬくもり
フライトのあとは反省の日々。もっと何かできたかもという思いにさいなまれることも多い。しかし、この反省の繰り返しでチーム自体の成長があると信じている。「後輩たちに自分たちが培ってきた経験を伝えたいんです。知識ではなく経験でしか語ることのできないことは多いですから。しかも過酷な事故現場が多いだけに心が折れそうになると思うんです。そうならないように私たちが教えてあげられることは全部教えたいですね。うちの後輩たち、かわいくてしょうがないんです」少し目を細めて語る前田さん。後輩たちにとっては厳しくも頼れる先輩に違いない。看護師を志したきっかけを尋ねると「幼稚園の頃の交通事故なんです。看護の『看』って手に目って書きますよね。看護師である祖母が手でずっとさすってくれたんです。私も看護師になりたい」痛みと寂しさに苦しんでいた前田さんに祖母の手の温もりがしみこんだ。あれから月日は経ったが、前田さんの看護師像は変わらない。そして、それは後輩たちへと受け継がれていくだろう。
取材 2013年6月 No.11 しごとびと