" 一つの視点だけでものを見ない。
それが私の原点です "
地元紙『南日本新聞』。その本社ビル3階は、報道部、文化部、写真部など新聞制作の心臓部が集結するフロアだ。奥行き約100m。フロア全体にインクの匂いがうっすら漂う。新聞記者という『取材のプロフェショナル』に、はばかる気持ちを抑えつつ取材をこころみた。
視点
日々のニュース、事件・事故を担当する報道部は時間との戦いである。一方、文化部は、企画ものや連載ものの大きな枠組みが決まった後は、じっくりと取材を重ね、作りこんでいく。その文化部に所属する藤本さんが今取り組んでいるのは『薩英戦争』。今年が150年という節目の年だ。新聞の連載はそのテーマの節目、時季を大切にする。1863年の夏に起こった薩摩とイギリスの戦争は、日本史の教科書にも登場する幕末の重大事件だ。藤本さんは尚古集成館や県内外の史跡に足繁く通い取材を重ねる。一番大事にしているものは視点。「戦争の原因となった生麦(なまむぎ)事件で、薩摩藩の大名行列を横切ったイギリス人がどんなふうに切りつけられたのか、報復としてイギリスの軍隊がどれくらいの規模でやってきたのか、庶民にとってどんな戦争だったのか。そんな新たな視点をあてると随分違う印象の戦争になるんです」
難しい言葉の出番
幅広い読者層をもつ新聞にとって、その記事を分かりやすく伝えるのは大切なことだ。しかし、平易さを優先しすぎると読者にとっての読み応えをなくすことにもつながりかねないという。たとえば、生麦事件の最中(さなか)、島津久光の様子を『瞑目(めいもく)して神色自若(しんしょくじじゃく)』と描写した史料があり、カッコ書きで『目をつぶって平然と落ち着いている』と説明を付けて引用した。「聞き慣れない言葉が記事の伝えたい雰囲気を醸し出すこともあります。この言葉でしか伝わらない味があるなら、理解できるように工夫した上でそのまま引用します。たとえ難しい言葉でも、その言葉が的を射ていれば『腑に落ちる』というか、読者の知的好奇心にこたえるものだと思うんです」
ザ・ニューズペーパー
新聞から始まり、ラジオ、テレビ、インターネットと続くマスメディアの歴史。メディアの世界では、3つのCとよばれるものがある。「新聞でいえば、コンテンツ=記事、コンテナ=広告などを含めた紙面全体、コンベア=輸送手段の3つです。インターネットはこのうち、コンベアの革命といわれています。瞬時に出来事を受け手に届けられますよね。しかし、インターネットのニュース配信も情報の出所は新聞社が多いように、コンテンツの重要性はこれからも変わらないと思うんです」最近ではツイッターなどSNSを使って個人が情報を拡散できる世の中だ。しかし、個人的な好みで恣意的に発信される情報ではなく、職業人として情報を集め、その情報の裏づけをとるのが新聞記者。その記事には責任が伴う分だけ、社会的役割も大きくなる。新聞の消えたアメリカの都市では行政の無駄が増加しているところもあるそうだ。自治体の議会に記者が張りつき、小さな町のイベントにも、こまめに足を運ぶ。そんな地域に根ざした新聞の存在は、コミュニティのバランスをとる役目も果たしている。「明治以降、私たちの新聞は、どこどこで火事があったとか、いついつに五つ子が生まれたとか、鹿児島のデイリーな情報を連綿と記録し続けています。私たちにはそのバトンをつなげていく使命があります」取材への協力も、藤本さん個人ではなく地元新聞社の記者という立場、そして、新聞の築き上げてきた信用で快く取材に応じてもらえるのだと話す。
若き日に刻んだ信念
新聞をよくみる家庭に育った藤本さん。小学校時分、『ロイター=共同』って何だろう?知らない言葉につまづきながら、大人の視点に親しみ始めた。高校時代、バタフライナイフで生徒が先生を傷つける事件が多発し世間を騒がせた。藤本さんが教育や社会問題に決定的に興味を持った事件だった。教育学部に進学し教育問題を学べる教育学を専攻。同時に社会の教師を目指したが、教育実習を通して決断を下す。「教えている自分の姿が痛々しかったですね(笑)。まだ人に教えるべきものが自分の中にないのに、受け持たれた生徒は不幸だ」と。企業への就活は新聞社の一点張り。社会の荒波に乗り出した。インタビューの最後、おもむろに財布から外国の紙幣を取り出した。大学の恩師からもらったものだ。その紙幣にあったのはイタリア人女性教育家モンテッソーリ。新たな視点で子どもたちの才能を見出した人物だ。『一つの視点だけでものを見ない』。藤本さんにとって初心をもち続けるためのお守りになっているのだろう。
取材 2013年6月 No.11 しごとびと