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シニア起業家

マニュアルのない道

上水樽 文明(うえみずたる ふみあき)

「普通」や「てげてげ」から生み出されるものは
何もありません。
懸命に、きばいやんせ!


ピジョン・ブラッド(鳩の血)、コーンフラワー・ブルー(矢車草の青)、インド洋の朝焼け。いずれも宝石の色の名前だ。電子部品や携帯電話で有名な京セラだが、一方で、その高い技術力によって、最高級の宝石(ジュエリー)を世に送り出している。ジュエリー部門を長年支え、昨年起業した上水樽さんに生き方の極意を聞いた。

 

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心震える出会い

55歳で京セラを退職し、現在、東京は銀座の真ん中に自らのオフィスを構える上水樽さん。お母さんの暮らす故郷・鹿児島と東京を行き来しながら自分スタイルのビジネスを展開している。「学生時代は、ロータリークラブの青少年団体に所属して、老人ホーム慰問などのボランティアに熱中していました。人に喜んでもらうことが嬉しかったんです」。ボランティア以外、将来の目標は定まっていない学生時代だったが、1冊の本が人生の方向を決めた。現京セラ名誉会長・稲盛和夫氏の生き様と哲学を書いた『ある少年の夢』を読み、「この人に尽くしたい、と思ったんです」。まだ大学3年生で就職活動解禁前にもかかわらず京セラ本社に足しげく通い、一人就活を続けた。しまいには人事部の人に「もう来ないでくれ」と言われたとか。「だけど、努力していたら味方は現れるものでね、推薦状を書いてくれる人が現れたんです」
その推薦状が役に立ったのか、会社突撃が功を奏したのかは謎だが、とにかく上水樽さんの一心は天に通じ、2000名の受験者の中の175名の合格者に入った。

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マニュアルのない道

当時、国内で初めて半導体パッケージやセラミック応用分野の産業を立ち上げた京セラは、ベンチャー企業の花形として脚光を浴びていた。だが、上水樽さんが配属されたのは、半導体や電子部品とは無縁の部署。仕事は、京セラが手がけ始めたばかりのセラミックナイフの市場開拓だった。これから始まる、第一線とは言えない部署だったはずだが、上水樽さんは落ち込むどころか「とにかく売るために、合羽橋商店街の店を片っぱしから回りました」。熱意は道を開き、包丁も売れ、流通ルートも出来始めた。そんな折、またもやジュエリー部門に異動となる。「また一から開拓です。考える暇もなく、人の懐に飛び込んでいくのに懸命でした」。営業以外にもお客さんの冠婚葬祭のお世話や頼まれごとなど、なんでも請け負った。「当時、休みもろくにとらない私たちを見て、ジュエリー部門は社内でも特異な部門のように思われていたことを後で知りました。やる気のない人にはキツいかもしれませんが、私は夢を売る仕事が楽しくて仕方がありませんでした」

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冷静沈着な戦略と情熱の炎

55歳になった時、「人の役に立ちたいといいながら、自分の親の面倒が見られないようでは本末転倒」と、定年退職を待つまでもなく、独立を決意。鹿児島と東京を往復するビジネススタイルを実現させた。独立した今も、勤めていた京セラへの感謝とリスペクトを語る。「次々に新規事業を展開し、その中で、若造だった私にもいろんなチャレンジをさせてくれました。いっぱい失敗もしたけど、それも大きく見守ってもらえました。会社には今も深く感謝しています」
京セラが開発した宝石づくりの技術は、原石を超高温で溶融し、時間をかけて再結晶させるというもの。不純物や欠けのない美しい宝石は世間を驚かせ、人工物だと嘲笑する人もいた。だが「新しい文化というものは 始めは嘲笑されるもの。機能品と違って、嗜好品は100年経ってようやく世間が追いついてくる。『普通』、『てげてげ』からは何も生み出されません」と上水樽さんは語る。穏やかな表情の中に熱い闘志をたぎらせる男の指には、光によって青緑にも赤紫にも輝きを変えるアレキサンドライトのリングがキラリと光っていた。

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取材:2016年9月