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塩づくり職人

塩づくり職人

宮本 哲哉(みやもと てつや)

1937年生まれ 日置市出身。伊作中学校卒業、吹上高校中退。板前、赤帽、タクシー運転手、民宿経営などを経て塩づくりに従事。吹上町長寿会会長。日置市観光協会理事。

" 働くことは傍(はた)を楽(らく)にすることと
背中で教えてくれる、人生の達人。"

広大な東シナ海を望む吹上浜の一角に立つ「渚のあま塩館」は、にがりの残る天然塩を作る工房だ。海水を薪で3日間、さらにガス火で3日間たきつめて作られる塩は、塩辛さだけではない、さまざまな旨味が凝縮されている。それはまるで、この塩の生みの親である宮本哲哉さんの人生のような、深い味わいである。

「漬けもん」でも作ろう。

昭和12年生まれ、現在77歳の宮本さんが塩づくりを始めたのは、十数年前、60代になってから。地元で経営していた民宿の経営から引退した後、自治会長、公民館長など地域の役を務めていた時だ。集落内の火災保険料などの集金も担当していた宮本さんは、税金等の支払いによって家計が困窮する人たちの声を耳にした。なんとか、みんなに現金収入の道を、と考えた宮本さんは、昔、吹上浜で盛んだった塩づくりを復活させることを思いつく。「塩を作るから、みんな畑の野菜で漬けもんでも作って売ればよかが」。塩づくりを始めたのには、そんな経緯があった。最初は小さな釜が1個だけの小さな小屋だった。宮本さんにとっても、塩づくりは初めての経験の上、体力的にもかなりつらい作業だったという。実は、その少し前、宮本さんは胃がんを患い、胃を全て摘出する手術を受けていた。「その頃は、抗がん剤を打ちながら仕事をしていて、3年くらいは飯も食べられないくらい体調が悪くて。今日は生きられるだろうか、生きられないだろうか、と思いながらの毎日でした」。

「漬けもん」でも作ろう。

どうせ作るなら、どこにも負けないものを。

体調の不具合と闘いつつ、試行錯誤しながら塩づくりに取り組んでいた平成14年、それまで国の専売制だった塩の販売が完全自由化された。漬け物など塩を使った加工品だけではなく、塩そのものを自由に販売することができるようになったのだ。集落の人たちはもちろん、役場からも、宮本さんの作る塩が地域の特産品になってほしいと期待する声が寄せられるようになった。「そぃから、いっだましぃ(生魂=気合い、本気という意味の鹿児島弁)が入って…」と宮本さんは笑う。もともと板前だった宮本さん、塩の味だけではなく、食品としての安全性にもこだわりをもち、沖縄、熊本、山口など、自然塩を作っている工場へ片っ端から視察に行った。「だけど、どこもみんな同じ作り方だったから、勉強にはならんかった」。宮本さんは図書館で分厚い専門書を何冊も借り、不純物を除去する方法、細菌の繁殖を抑える方法、味をまろやかにする方法など、いろんな角度から研究を重ねた。
原料の海水は、宮本さん自ら船を操り、生活排水の流れ込まない沖合3㎞の海中からくみ上げる。味の妨げになる石灰質や不純物を除去する製法も独自に編み出した。徐々に行政の協力も得られるようになり、海水貯蔵タンクや釜、建屋なども整備されていった。真っ白な塩の結晶には、宮本さんと地域の人たちの長年の思いが凝縮されているのだ。深みのある味わいは、素材そのものの旨味を引き出す名脇役として、県内の有名料理店や割烹などから引き合いが多い。東日本大震災の後、店を再起した三陸地方の居酒屋の女将さんもこの塩に惚れ込み、定期的な注文が入ってくる。

どうせ作るなら、どこにも負けないものを。

好きなことを見つけて、なんでもやりなさい!

宮本さんは、若い頃、かなりの“やんちゃ”だったらしい。勉強そっちのけで遊び回り、高校3年の夏には、ケンカで退学という武勇伝も。その後は板前の修業に励んだり、上京して東京駅で赤帽(乗客の荷物を運ぶ仕事)を務めたり、いろんな土地で、いろんな経験をした。「時代が今とは違ったからね~」と笑うが、自分の限界を決めつけないで、好奇心のおもむくままに何でもチャレンジする気持ちが人生の幅を広くしてきたことは間違いない。
若い人たちへのメッセージを聞くと「何でも、好きなことをどんどんやったほうがいい。失敗しても、道を外れても、また戻ればいいから」という言葉に続けて「国の将来のためにみんな結婚して、子どもをたくさん産んでほしいね」と、社会の先輩としてのメッセージを託された。

取材 2014年6月