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フォトグラファー

け死ん限ぃ頑張れ!

前田 昌宏(まえだ まさひろ)

"好きな事を見つけて、
3年間は「け死ん限ぃ頑張れ!」"

薩摩半島の最南端で南の海を眺めて育った少年は、自分の中の「好き」を追い求めて東京、そしてニューヨークへと自らの舞台を広げていった。そしていま、東京の広告界でフォトグラファーとして活躍中だ。さまざまな苦労を苦労として終わらせることなく、成長への肥やしにかえて歩んできたその人は、おとなになったいまも、少年の瞳でファインダーを覗く。

あたたかな自然と家族に育まれて。

フォトグラファー前田昌宏さんの生まれ故郷は指宿市山川町。夏休みで帰省した前田さんを訪ねた。「今日は曇ってて、開聞岳をお見せできないのが、ほんとに残念です」。秀麗な開聞岳と南に広がる海、岩肌が荒々しい岩山。起伏にとんだ南薩摩の豊かな自然は、豊かな感性をのびのびと養ったに違いない。県知事賞を受賞するほど、小さい頃から絵が得意だった。カメラとの出会いは中学時代。修学旅行用に、と父が買ってくれたのがきっかけだった。「絵を描くのには相当な時間を要するけど、一瞬で光をとらえることのできる」カメラは、前田さんの性に合っていた。
一方、高校時代はバンド活動にのめりこんだ。「学校では禁止されていたから、他の学校の友達とバンドを組んで、ドラムを叩いていました」。卒業後は、音楽と映像の道に進むべく、東京の専門学校への進学を決める。大学への進学を期待されていた当時、家族の賛成を得られなかったため、新聞奨学生になり、毎日の新聞配達によって東京での生活費と学費を自力でまかなった。

フォトグラファー

修業時代に養われたもの。

専門学校時代、広告写真と出会い、写真の道に進むことを決めた。卒業後は著名な広告写真家に師事。「ポスターやカタログなど、予算のある仕事を選ぶ先生だったので、きちんとしたライティングや撮り方を学ぶことができました」。後に独立し、低予算の仕事を依頼された時は、予算に応じた仕事のやり方に困惑することもあったが、さまざまな仕事に応用できる基礎力はこの時期に身に付いた。
3年間アシスタントを務めた後、ニューヨークへ渡った。それまでの努力を見てくれていた両親は、この時、応援してくれた。大学の語学スクールへ通った後、アメリカ人フォトグラファーのアシスタントなどを務めた。「技術力があるけれど語学力がない日本人は、低待遇に甘んじなくてはならない」実情も目の当たりにしたが、言葉や人種の壁を乗り越え、日本とアメリカを行き来しながら、プロモーションビデオやジャケット撮影、コーディネートなどの仕事をこなした。帰国後、広告や雑誌を手がけるスタジオ務めを経て2006年、フリーランスとして独立した。人をそらさない気配りとウイットに富んだ語り口は、天性のものに加え、異境地で生き抜いてきた前田さんが身に付けた才能の一つなのかもしれない。

開聞岳の写真
Photo by Masahiro Maeda

「け死ん限ぃ」やってみよう。

サッカー選手、ジャズ演奏家、音楽評論家、華道家。これまでに撮影した著名人は数知れない。フォトグラファーになってよかったことは、各界トップの人たちとお互いに対等な立場でつきあうことができること。「普通なら出会う事のできないような人たちと、公私を含めておつきあいできますから。学歴に関係なく、腕を磨けばトップの人と対等にお付き合いできる機会がある。写真家ならでは、の醍醐味です」。ただ、技術が物を言う世界。腕を磨く経験と時間が必要だ。「アシスタントは給料が低いこともあり、大方の人が時給の高い別の仕事に就いてしまう。それはその人の自由だけど、写真が好きで才能に恵まれた人が途中で諦めるのは惜しいと思います」。
仕事を探す若者に伝えたい事を聞くと「自分の好きな事をやればいい。でも、どんな事でも、シッタロ(なにくそ!)という思いで、け死ん限ぃ(必死に)やってみんといかん」と薩摩人らしい言葉が返ってきた。「3年頑張ってみて、あまりにも自分が向いてない時は方向転換すればいい。そこまで頑張らないと何者にもなれない。とりあえず必死な3年間を繰り返していれば、何か見えるはず」。山川の大地から噴きあがる熱い地熱のような、アツい情熱を燃やし続ける「しごとびと」からのメッセージである。

フォトグラファー作品集
Photo by Masahiro Maeda

取材 2014年8月