陶芸作家

山口 利枝(やまぐち りえ)

1977年 鹿児島市生まれ。星峯中学校、松陽高校普通科美術コース(現・美術科)、兵庫大学短期大学部美術デザイン科を経て、同短期大学部陶芸専攻科卒。
1999年から3年間、京都の陶芸作家 藤塚光男氏に師事。2002年、郷里鹿児島にて独立。

" 土を触っていないと、落ち着かなくって。
この仕事が好きなんです "

陶芸家というと、いかつい職人の世界を思い浮かべるのではないだろうか。けれど私たちが出会ったのは、柔らかな笑顔を絶やさない女性作家だった。京都で修行し、帰郷して窯を開いた山口さんは、どのようなきっかけでこの仕事を志し、実際にどのように活動しているのかを伺った。

一般的に焼き物は、原料となる粘土の違いによって陶器(土もの)と磁器(石もの)に分けられる。温かみのある素朴な風合いの陶器と、硬質でなめらかな手触りの磁器。師匠の元で磁器を製作するうちに「日常使いに向き、今の食生活に合うと思った」山口さんは今から十年前、鹿児島では珍しい磁器作家として活動を始めた。

自分でとことん行動する

些細なきっかけから、陶芸の道へ

「私は憶えていないんですけど、家族で山に行くと画用紙に草花の絵を描いていたみたいです」中学校に入る頃には美術コースのある松陽高校に行こうと決めていた。高校時代は美術コースで学びながらバドミントン部に所属。その後、短大の美術デザイン科に進学。グラフィックデザイナーを目指そうとしたが、グラフィック科は希望者が多く、次に興味があった陶芸科を専攻することに。「はじめは、陶芸作家になるなんて考えてもいませんでした」と語る山口さんが焼き物に惹かれていったのは、好きな作家の仕事場を訪ね歩いているうちに、この世界こそが自分に合っていると感じるようになったからだ。
卒業を控え、これからどうしたら陶芸を仕事として続けていけるだろうと考えていた矢先、仕事場を見学したのがきっかけで藤塚光男氏の元で働けることになった。師弟関係が厳しい世界。「私の師匠は優しかったですよ」とはいうものの、三年間の修行時代は朝九時から夕方六時まで働き詰めの毎日。夜十時まで製作することもあった。さらに絵付けで使う筆に慣れるために仕事帰りには書道教室へ。まさに生活のすべてが陶芸一色だった。あまりの辛さに辞めたいと思った時、先輩の「辞めるのはいつでもできる」という言葉が山口さんを思いとどまらせた。辞めてしまうのは簡単だ。けれど自分には陶芸しかできることがない―消極的な前向きさで、自分を奮い立たせた。

些細なきっかけから、陶芸の道へ

自分でとことん行動する

故郷鹿児島に戻り、陶芸作家として活動を始めたのは25歳の時。日吉町にある父の実家の物置小屋に窯を据えた。独立したばかりで販路はない。出来上がった作品をスーツケースに詰め込んで東京へ行商に向かった。「第三者の厳しい目を通さなければ、良いものはできない」という師匠の言葉が山口さんを動かしていた。作品を置いてもらえそうなギャラリーを調べ上げ、オーナーと直接交渉したという。温和な物腰の彼女からは想像しにくい行動力だ。しかしその甲斐あって、山口さんの器を扱う店はこの十年間で延べ20を超えた。「若さゆえの勢い、でしたね」と笑う言葉の裏には、妥協を許さない作品への自負がある。優しい作風の中にどこか凛とした空気を感じさせるのは、彼女の芯の強さの現れかもしれない。

「毎日使ってます」のひとことが嬉しい

マスメディアが集まる東京では、テレビや雑誌の撮影のために様々な資材をレンタルする会社がある。器もその一つで東京のギャラリーには器のレンタル会社が仕入れに来ることも多いのだという。たまたま手にした料理雑誌などで、自分の器が使われている写真を目にするのも仕事のやりがいを感じる時だ。「器はあくまでも引き立て役。主役の料理をおいしく見せる脇役だと思っています」と山口さんは語る。以前から窯元を巡って器を探すことが好きだった両親は料理も得意で、テーブルにはいつも美しく器に盛られた食事が並んだ。家族で食卓を囲んだその経験も今の器作りに繋がっているのかもしれない。
最近では地元鹿児島のイベントに出店することも増えてきた。ギャラリーに納品するのとは違い、お客さんの反応や感想を直接聞くことが刺激になっているという。「マグカップを買ってくださった方が、『コーヒーの時間が前よりずっと楽しみになりました』と言ってくださったことが嬉しくて」——身体が動かなくなるまでこの仕事を続けたいと、はにかみながら話す職人の横顔が印象的だった。

「毎日使ってます」のひとことが嬉しい

取材 2012年11月 No.9 しごとびと