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和紙職人

和紙職人

小迫田 昭人(こさこだ あきと)

1956年生まれ 姶良市出身 様々な会社で、営業、企画、飲食業等を経験。35歳(1990年)を期に、独学にて和紙製作をはじめる。現在、気の合う仲間たち(み展)と集合展を企画開催するとともに、ギャラリー等での個展でも、和紙の良さを多くの人たちに伝え続けている。

"三六五日、毎日が仕事。
でも不思議と疲れを感じないのです。"

小迫田さんは、和紙づくりを始めて十八年。それまで和紙に興味をもったことすらなく、十三年間転職を繰り返していた。和紙づくりのノウハウもなければ、師匠もいない鹿児島で、どのようにして和紙をつくる環境を整えていたのだろう。

和紙は生きものだから

和紙づくりの工程のひとつ「紙漉(かみすき)」は、日本人ならなんとなくでも目にしたことがあるだろう。和紙の材料の入った槽(ふね)の中に、大きな四角いお盆のような竹簀(たけす)をザブンとくぐらせ、すっと持ち上げ、柔らかなリズムで竹簀を揺する。「同じ事を繰り返しているようだが、毎回違う」と小迫田さんは言う。竹簀の中に入る材料や水は刻々と変化し、同じ比率はない。こちら側が言う事をきかせようとすると失敗する。材料も水も生きているから丁寧な対話が必要。だから、完成した和紙一枚一枚に個性がある。材料を作るだけでも三週間はかかる。生きもの相手の仕事だから休日はない。安心して作業ができるさつま和紙の工房は、姶良町の彼の実家である田舎家の物置小屋を彼自身の手で改築した。幼い頃の思い出がたくさん詰まっている場所だ。また、和紙の命である水…井戸も涸れずに美しい水を出し続けている。

和紙は生きものだから

自分は何に向いているのか

地元の高校から推薦で福岡の大学へ進学した小迫田さんは、受験地獄を知らぬまま、また親が公務員だったこともあり「自分には事務職が向いている」と判断し内勤系に就職。一年を過ぎたあたりで「この仕事を長く続けられるだろうか」という不安がよぎり営業系へ職を変える。しかしその不安は払拭されず今度は飲食系へ、また他の仕事と次々と職をかえた。仕事をしたくないわけでもないし、いい加減に仕事をしていたわけでもない。真面目に仕事をしていたが、どの仕事に就いても二年目に入ると、同じ事を繰り返す徒労感が出てきて、休日が文字どおりの休みの日となっていた。体と心に休養をとらなければ、次の一週間がもたなかった。かなり無理をして仕事をしていた。

モノを作りたいという衝動

専門学校で働いていた頃、デザイン科立ち上げの担当となった。講師の芸術家と生で触れ合う新鮮な日々だった。それまでの小迫田さんの人生には「芸術」などなかったが、ある絵描きのT氏に感銘したことをきっかけに、休日のたびに彼のもとへ足を運び、自分でも何かつくり出したいという想いにかられていった。しかし、モノづくりを職業にするようなスキルを小迫田さんは持っていなかった。「モノを作りたい」という衝動と「モノを作れるのか?」という不安。その気持がせめぎあったとき小学生の頃の記憶が蘇った。プラモデル作りに熱中し過ぎて、肩甲骨が神経痛になり医者を驚かせた。モノを作り出すと何もわからなくなるくらいの集中力があった。「ボクはモノを作るのが好きだった」。好きなことをするのに理由はいらない。やっと気付いて、新鮮な眼で廻りを見回すと、ガラス、鉄、染色、布……モノ作りの色々な素材があった。「何を創る?」自分に問いかけた。答えは「紙」だった。

モノを作りたいという衝動

毎日が挑戦の日々

もちろん和紙職人への道は平坦ではなかった。「和紙づくり」の詳しいマニュアルはない師匠になってくれる人も少ない。失敗をくり返しながら、自分でつかむしかなかった。怖いもの知らずで飛び込んだ「和紙づくり」の世界は、毎日が挑戦の日々。しかし、静養のための休日はもう必要なかった。「三六五日、毎日が仕事。でも不思議と疲れを感じないのです」と小迫田さん。自分の仕事を見つける迄に十三年間、転職の日々だったが、和紙づくりを始めて十八年がアッという間に過ぎようとしている。

ここ数年は、ものづくりの仲間たちと定期的に個展を開いている。また姶良の北山伝承館では、紙すきの講師として、和紙の作り方や良さを伝えている。小迫田さんの「和紙」を通しての人との交流は、まだまだ広がっている。