麻酔科医

丸古 和央(まるこ かずひさ)

1972年生まれ 鹿児島市出身 紫原中、甲南高校、鹿児島大学医学部卒業。平成19年から名瀬市にて麻酔科医として働く。

今でも、国家試験の夢にうなされることがあります(笑)

手術室には外科医とともに患者の状態と情報を完全に共有する医師がいる。麻酔科医だ。呼吸器や循環器など広範な内科的知識、薬の相互作用など薬理学的知識をもったプロフェッショナルが、急激な血圧低下など、患者の緊急事態に備えてモニターを見つめる。

学年ビリから医学部へ

机に座って字を書くという習慣が全くなかったという丸古さん。高校になると完全に落ちこぼれてしまった。模擬試験の偏差値は30台。「1学年510名中500位くらい。自分より下は不登校の人達でした」一つの転機は高3の春。「最初は『学年があがれば分かるようになるだろう』と思ってましたが、どんどんわけわかんなくなって、高3になる頃『もしかしたら勉強しなくちゃダメかな?』と思いました。ところが勉強の仕方が分からない(笑)」当時は珍しかった高校生の塾に通うことになった。教室での授業というよりは、自習時間に塾の先生達と触れ合う中で教科書、参考書の使い方を覚えた。まず数学に魅力を感じ、数学の点数が取れるようになり、その後、他の教科の勉強の仕方も分かるようになってきたという。「社会だけは最後までできるようになりませんでした(笑)」一浪目で鹿児島大学獣医学部に合格するも、医師の道が選択肢として入ってきていた丸古さんは、今度は塾講師として教える側となり、鹿児島大学医学部に入学した。「今思うと10代や20代の進路変更や軌道修正はどうにでもなると思います。30代では難しくなりますし、40代では相当な意志がないとできないことだと思いますが」。

なるがままにまかせてこの地に根をおろす

医学部に進学しても暗記嫌いは相変わらず。「今でも、国家試験の夢を見て、うなされることがあります(笑)」それでも何とか試験をクリアし研修医となった丸古さん。当時は外科系医師の道を考えていた。「自分自身の身の振り方を考えさせる難しい時期がありましたが、結局『人との出会い』ということですかね。現在の麻酔科教授をはじめとする先輩方のアドバイスもあり、取り合えず麻酔科医の道を歩き始めました。その後も、敢えて10年以上修業が必要な外科医に進む選択も頭をよぎりました。でも、現場に出ると医師不足や人のつながりなど、その現場の事情があります。今は『なるがままにまかせてこの地に根をおろした』という感じです。世の中はそんな人の方が多いんじゃないですか?若い頃から人生設計をしている人は非常に少ないはずです」。

硬膜外麻酔をしている場面
硬膜外麻酔をしている場面

自分が動けばいい

「私が担当している奄美大島のような地区では、名瀬の大きな病院だけではなく、地方の古仁屋や徳之島の病院に私が行くことで、必要な手術を少しでも早く行うことができます。そして、老人が老人の世話をしているこの時代に、患者のお見舞いに来る高齢の親族の方々も、地元で手術、入院できるとなれば負担が軽くなります。動ける人間が動くことで解決できればそれがいいんです」それを実現するため名瀬にて開業医として4年を過ごすが、現在勤務する大島郡医師会病院の医師不足問題が発生し、地元の医師会の要請により、今は、午前中は内科医として勤務している。午後は公的、民間に関わらず、島内外複数の医療機関の麻酔需要に応えるため自ら出資した「株式会社マルコポーロ」の派遣医師として、手術の現場へと移動し、多いときで週に10件以上もの手術麻酔を担当する。なお、「マルコポーロ」はへき地ということもあり「医師派遣」を厚生労働省より正式に認められた数少ない民間会社である。

生命を確保する為に

手術の大きさ、患者の状態や年齢、病院の設備などの条件によって、適切な麻酔方法を選択し、手技を行うことが重要な仕事の一つだ。しかし、一方で麻酔科医としての仕事は機械が発達し、ベテランだろうが一年目の医師だろうが『何も』起こらなければ仕事の結果は変わらないという。ただ、手術中、血管が傷ついたり、血圧が変化したり、喘息がでたりと、想定外の事態は起こりうる。『何か』あったときは積み上げてきた経験と知識が勝負となるのだ。私たちから見れば、人の生き死にという非日常を職業に選んだ丸古さん。今ではそれさえも日常の仕事だ。高齢者や重病患者の手術となると死と隣り合わせる。それでも彼らは冷静に光を求める。『仕事とは』の問いかけに「飯を食うためのものです。それができなければ今度は自分の仕事ができませんから」そのぶっきら棒な答えの中に、丸古さんの仕事へのプライドを感じた。