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陶芸家

実践の中で学んだ

新納虫太郎 (にいろ むしたろう)

作りたいのは、自らを主張する作品ではなく、
料理が映える器、使い手が満足する器。

陶芸家・虫太郎の名前は「窯を焚く時、ろくろを回す時、文様を描く時…焼き物を作る時に自らの第六感(虫の知らせ)を大切にしたい」という願いを込めて命名した新納さんの作家名だ。その名の通り、彼は、自らの直感とわき上がる創作熱に突き動かされ、陶芸の道を一途に歩んでいる。鹿児島市郡山の清浄な空気の中にたたずむ工房を訪ねた。

陶芸家

‘好き’を選んだ。

子どもの頃からプラモデル作りや図画工作が好きだった。鹿児島高専で電気工学を学び、卒業後は国内大手の機械メーカーに入社、オートバイの設計に携った。「オートバイ好きが高じて入社した会社だったけれども、周りのみんな僕以上のバイク好き。その中にいると、徐々にバイクに熱中できなくなっていきました」。ギターを趣味としていた虫太郎さんは、仕事が終わると飲み屋に出かけ、ギターのひき語りをするようになった。好きだったRCサクセション、吉田拓郎のほか、お客さんのリクエストにこたえられるようブルースや流行の歌もマスターした。そんな活動を通じ、会社以外の人と交わることが多くなって様々な職業、幅広い年代の人たちとの遊びでキャンプやスキーなどアウトドア体験が増えた。渓流沿いにテントを張り、釣ったイワナやアマゴを焼いて食べ、キノコや木の実を採って食べる体験を重ねるうち、虫太郎さんの中の何かが揺さぶられた。「機械をいじるより、自然を相手にしたいという気持ちが高まっていきました」
勤めはじめて10年余り、会社ではオートバイのほかプレジャーボートの設計や新技術の開発なども担当した。しかし、心の中に芽生えた小さな違和感が消えることは無かった。すでに結婚しており、2番目の子どもの誕生を間近に控えていたが、会社を辞めた。その後の身の振り方は決まっていなかったが、生まれ来る子どもを迎えるため、「とりあえず故郷である鹿児島へ帰ることにした。「どこへ行っても、何とかなる気がしていたんです。若さというか、夫婦2人とも何も考えてなかったですね〜」と妻の綾子さんと顔を見合わせて笑う。

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導かれるように、第二の人生。

鹿児島へ帰った虫太郎さんは、自然相手の仕事を探した。「森で働く仕事や、漁師の口を探していました」。そんな折、たまたまハローワークで薩摩焼の窯元の求人を目にした。それまで、焼き物にはまったく興味もなく、経験もゼロだったが、土に触れられるところに魅力を感じ、応募することに。軽い気持ちで臨んだ面接では、師匠に向かって「ずっとここで働く気はない。焼き物をやるなら、いずれ独立したい」と宣言した。実は、その窯元では、一人の職人さんはひとつの工程だけに専念するのが慣例になっており、独立を志す人には不向きな職場だった。だが、虫太郎さんは、なぜか採用された。
仕事として何気なく入った陶芸の道だったが、虫太郎さんは、焼き物づくりの面白さに魅了されていく。最初に従事したのは、石膏型に陶土を流し入れる「鋳込」という作業。泥の濃度や混入するケイ酸ソーダの割合で生産性に大きな差が現れ、科学的好奇心が刺激された。そんな窯元での仕事の傍ら、独立を目指し、自宅近くに作業場を作った。毎朝3時頃には起きて「蹴りろくろ」の練習に励んだ。分からない所は、ろくろの達人である同僚を無理矢理家に呼び、どん欲に知識や技術を吸収した。職場の昼休みには、粘土を捏ねる「菊練り」の練習も続けた。1年ほど過ぎると、陶器を焼く「窯場」へ異動になった。釉薬(ゆうやく=粘土やわら灰、石などを水に溶かした液体。陶磁器の表面に掛けて焼くことで器への水分の吸収を抑え、光沢や美しい色合いを表現することができる)の調合や釉薬掛けも担当させてもらえた。「この頃は、朝早く出勤し、夜も残って職場でろくろを回す練習をしていました。時々、師匠直々の指導がもらえることもありました」。入社から4年経った頃、正式にろくろの担当になった。一人の職人が、これほど短期間のうちに幅広い仕事を担当させてもらえるのは異例のことだった。また、自宅作業場には家族の協力のもと、小さな「登り窯」も築いた。「自分の窯ができると、早くその窯を焚いてみたくて仕方がなく、そのために早く勤めを辞めたいという気持ちが高まりました」。焼き物に出会って5年、最初に師匠に宣言した通り、独立を果たした。師匠からは「5年では短い、10年は居なさい」と言われたが、待てなかった。「いまなら、5年では短い、と言われた意味がよく分かるんですけど…」と虫太郎さんは笑うが、自らの情熱に正直動いた人には、運命を巻き込む勢いがあったことは間違いない。

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走りながら、転びながら、実践の中で学んできた。

基礎力があったからこその自己流。

独立した当時、薩摩焼というジャンルに縛られたくなかった。師匠のもとでは、美しいフォルムを作り、華麗な絵付けを施していく、手技が作り上げる緻密な工芸品が薩摩焼だと教えられた。「でも、当時の私は、炎の当たる窯で勢いよく焼かれる野性味のある器が良いと思っていました。本当のところ、その頃の私は薩摩焼についてよく知らなかったのです」。粉引や焼〆、藁灰(わらばい)など、山土を掘りに行き、田んぼで藁灰を焼き、蹴りろくろで成型し、登り窯で焼き上げ、自分が作りたいと思っていた方法で、作りたいと思っていた器を次々に作った。
そんな虫太郎さんの作風に変化を与えたのは、大島紬の職人との出会い。大島紬の柄を写した焼き物ができないか、という相談を受けたことがきっかけだった。「大島紬が似合う焼き物を探し求めると、結局、薩摩焼に行きついたのです」。それから、あらためて薩摩焼について勉強を始めた。原点に立ち返り、薩摩焼と紬文様の融合を試みた。およそ10年間の試行錯誤を経て、まず黒薩摩焼、次いで白薩摩焼に大島紬の文様を施した「紬もん」シリーズを完成。2012新特産品コンクールでは観光連盟会長賞を受賞した。「わずか5年間の窯元での修業で、すべての基礎を身につけたとは言えませんが、最初に基礎を叩き込まれたからこそ中途半端な自己流薩摩焼でもやれたのかもしれない」と、振り返る。
数々の作陶体験を経て、現在、自らの作品はもとより、若手デザイナーやアーティストとのコラボ作品づくりにも積極的に取り組んでいる。実際、虫太郎作の器を贔屓(ひいき)にしている料理店や料亭も少なくはない。「私は元々設計屋であり、アーティストではありません。作りたいのは芸術的な作品ではなく、料理が映える器、使い手が満足する器。どちらかというとそんな器を作りたい‘器屋(うつわや)’なのです。今後も、その時々の人との出会いや気持ちの変化によって作風は変わっていくと思います」。仕事として、何気なく足を踏み入れた道は、虫太郎さんと家族の人生を変えただけではなく、鹿児島のものづくり業界に影響を与え続けている。「ここまで茶碗に取りつかれたら、とにかくやり続けるしかないよな」と、土に引き寄せられ、ものづくりに魅せられた人は笑った。

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取材 2015年1月