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デザイナー・パタンナー

夢のアパレル業界へ

宮地 真奈美(みやち まなみ)

好きなことをきわめるのが一番。
好きなことは頑張れるから。
中途半端な努力では結果を出せない。


押し寄せる波。舞うルリカケスの妖精。黒潮に乗ってくる船。奄美の六調のリズムにのり踊る人びと。ここは鹿児島国文祭のオープニングのリハーサル会場。先人たちは異文化との交流によって独自の新しい文化を切り開いてきた。壮大な県民の物語を総勢400人が力強く演舞する。この舞台衣装を制作し総括するのが宮地さんだ。

 

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やりたいことを何でもさせてくれた両親

「子どもの頃からとにかく物を作ることが大好きでした。母の影響ですかね。母も編み物や、洋裁教室に通って洋服を作っていました。余り布で人形の洋服や小物、いつも何かを作っている子どもでしたね。小学生になったら自分の洋服を。中学では、人形作りにはまって。顔に使う布は紅茶で染めたりして、本格的でした(笑)人形作家の米山京子さんに憧れていました」。土曜日が楽しみだったという宮地さん。学校から帰ると、勉強もせずに、次の日の朝まで人形作りに没頭した。「できあがると居間に置いておくんです。それを見た母は、本当にものすごく褒めてくれるんです。それが嬉しくて、嬉しくて」。両親は本人がやりたいことを思いきりさせてくれた。

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家出貯金

高校は、もちろん服飾系に進もうと考えていた宮地さん。そこで初めて父親の反対に合う。結局、普通科の高校へ進学。「でも入ってみたら楽しくて。バザーがある高校で、思いっきり大好きな手作りができるんです。リーダーになって、布を仕入れたり」。東京でもっと服飾の勉強をしたい。そう決心したのもこの頃だった。が、またもや、父親が県外は許さないと反対。「思い通りの進学ではなかったけど、短大では染色、七宝焼、和裁、洋裁。好きな授業がたくさんありました。同時にたくさんのアルバイトもしました。実は、卒業したら家出をして東京に行こうと決めていたんです。(笑)。2年間で100万円貯めました」

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憧れの東京へ

反対していた父が許してくれた。費用も出してくれた。憧れの東京、文化服装学院1年コースに入学。それが思っていたのと大違い。短大時代の楽しい雰囲気は一切なし。全員で30人のクラスは10人が韓国人女性、その他は有名美大卒生。デザイナーで身を立てる。もっと上に行く。中途半端な気持ちの人はいなかった。「ものすごいスピードで授業が進むんです。毎日大量の宿題が出て、夜中の2時、3時までは寝られませんでした。でもだれひとり手を抜く人はいませんでした」。毎日ボディーや定規を抱えて電車通学した宮地さん。ここでデザイナー、そしてパタンナーの基礎をたたきこまれた。冬休みには、あの、100万を持ってパリへ。ディオールのファッションショー会場へと向かった。またひとつ経験を積む。

仕事は一人ではできない。
この人と一緒に仕事をしたい、
仕事を頼みたいと思ってもらえるように
誠意をもって取り組むこと。

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夢のアパレル業界へ

当時、DCブランド全盛期。宮地さんは人気ブランドのニコルの入社試験にチャレンジ。最終面接まで残った3人のうちの1人だった。「他の2人はスーツケースに自分で作った服をいっぱい詰め込んで来ていました。テンションが下がりました。あーこれはダメだな」そんな折、パリコレにも出ているヒロココシノの募集を知る。試験を経てパタンナーとして採用された。デザイナーの感性で描いた平面のデザイン画を見て、そのイメージになるようにシーチングという布で服を試作。それを平面の型紙にし、縫製方法を考え、縫製工場へ依頼する。「デザイン画を商品化するまでの全工程がパタンナーに任されていました。仕事にはまり込んでいくという感じでしたね。自分の手がけた作品が初めてパリコレに出たときは、うれしくて涙が出ました」。その後、パリコレで構築的な服を発表していたシャンタルトーマスに惚れ込んで別のアパレルメーカーに転職する。

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私のストーリー

東京にいる時、母親を癌で亡くした。そして次には父親が癌を患う。「母の看病ができなかったので、父の近くにいたい。鹿児島に帰ろうと決心しました」。その後、結婚、出産を経て、亡き父、母と暮らした実家で暮らす宮地さん。短大の恩師の紹介で、大島紬の洋装の型紙を作り始めた。自由出勤のスタイルにしたのは母にしてもらったように子どもたちに、おかえりと言いたかったから。縁はつながる。母校の短大で講師となり、今まで学んだことを今度は学生に伝える。「学生は、学園祭で自分の制作したドレスを着て東京コレクションのように歩くのを楽しみにしています。最高に素敵な自分を演出するドレスを制作するため一生懸命質問してきます。かわいいですよ」。昔は、服を作ることは自己満足の世界だった。今は、着る人の喜ぶ姿が見えるから楽しいという。「私、作ることが大好きなんです。これしかできません。死ぬまで作っていると思います」。そういって笑う彼女は、キュートでかっこいい。今、国民文化祭で鹿児島の文化の伝承をテーマに舞台衣装を手がける。新境地に挑戦中だ。鹿児島を切り開いてきた先人のように、宮地さんも自分の道を切り開いていく。

 

取材:2015年8月