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航空会社勤務

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濱田秀樹(はまだ ひでき)

1962年生まれ 鹿児島市出身。
城西中学校、鶴丸高校、早稲田大学教育学部卒業。
全日本空輸株式会社入社。現在、鹿児島支店支店長。

いくつになっても、どこに住んでいても、
心のふるえる多くの瞬間をつくろう!

「挫折という経験は、長い目で見ると、わるいことではないと思います」。
日本を代表する航空会社の支店長である濱田秀樹さんにインタビューを始めると、最初にこんな言葉が出てきた。その後も、スマートな外見のイメージを裏切る話の展開に私たちはどんどん引き込まれていった。

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サッカーのない人生なんて…

中学時代からサッカー部で活躍し、全国大会に出場した経験も持つ濱田さん。高校進学はサッカーの強豪である浦和南や帝京高校を志望したが、当時、学区外への越境入学・転学が認められていなかったため断念。県内の進学校に進学してサッカーを続け、他校の選手とともに県代表で国体に出場したことも。文武両立の青春時代を過ごしていた濱田さんだが、「サッカーに没頭し過ぎて」不覚にも大学受験不合格という結果に。人生初の挫折を味わったが、浪人生活を送った東京の街は刺激的で、別の活力を与えてくれた。翌年、晴れて早稲田大学に入学。早速サッカー部に入部し本格的なトレーニングを積んだ。W杯日本代表監督を務めたことでも有名な岡田武史をはじめとする優秀な選手を輩出した大学の体育会はレベルが高く、トレーニングは厳しかったが、サッカー中心の大学生活は充実していた。教育学部の学生だった濱田さんは、学校の教師も視野に入れていたが、教育実習の申請書提出を失念、教育実習を履修することができなかった。

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わるい事は起きていなかった

濱田さんがサッカー選手として実業団チームへの入団を目指していたのはJリーグ開幕前の話だ。実業団チームで結成されていた日本サッカーリーグのいくつかのチーム中で全日空が運営に参画していた全日空サッカークラブ(後に横浜フリューゲルスを経て横浜Fマリノス)に入団を果たす。午前中は全日空の社員として空港カウンターや予約センターなどで仕事をこなし、午後からはサッカーの練習に駆けつける毎日。試合の時は一般社員もバスで駆けつけ声援を送ってくれた。「良い時代でした。社員同士なので、スタンドからは冗談まじりのヤジが飛んできたものです」。社内でも目立つ存在として活躍していた濱田さんだが、30歳の時、Jリーグ参入を前に、まさかの戦力外通告を受け、一般の社員として通常業務に従事する毎日を迎えた。「あと2、3歳若ければ他のプロチームへの移籍を考えましたが、当時のスポーツ界で30歳という壁は厚かった。しかも、会社には10年近く在籍していましたが、通常業務についていけませんでした。毎日がキツかった」。悩みに悩んで転職も考えたが、ギリギリのところで今の会社に踏みとどまることができた。「起こる事にわるい事はない、とよく言われますが、いま振り返ると、当時最悪だと思った事も、わるい事ではなかったと思えます」

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薩摩人の気概をみつめてほしい

激流のような運命の中を懸命に走り、いま支店長を務める濱田さんは、イスにじっと座っている管理職ではなく、自らプレイイングマネージャーとして、西へ東へ営業活動に飛び回る。いま若い人たちに伝えたいことは、維新期の薩摩人の気概と進取の気質を学んでほしいということ。「薩摩藩は英国に留学生を派遣しましたよね。彼らは航海中での経験や交流によって五感が研ぎ澄まされ、発想やひらめきの源泉を得、日本近代化に大きな貢献を果たしました。あの頃の薩摩人の知恵や気概を、改めてみつめたい」。薩摩の先人のDNAを私たちは受け継いでいかなければならない、と濱田さんは熱く語る。「どこに居てもいくつになってもすぐれた音楽や芸術、映画に触れることはできます。五感を研ぎ澄ますには『心のふるえる瞬間』をどれだけつくり出すことができるか、ということ。磨き抜かれた感性を持つ人が地元にいれば、どんなお客様が来られても、ときめくおもてなしをすることができるはずです」。さまざまな体験を重ね、磨き抜かれた感性を持つその人は、50歳を過ぎた今もきらめく瞳でそう語り、インタビューが終わると足早に営業というピッチへ出かけていった。

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取材:2015年2月